具有收敛止泻的药:日本小学生作文《我和爸爸的便当盒》

来源:百度文库 编辑:偶看新闻 时间:2024/04/17 05:55:24
日本小学生作文《我和爸爸的便当盒》汉语部分转自 吴非老师 的新浪博客
【吴非按】    在关注日本大地震的时候,有朋友向我介绍一篇日本小学生的作文。这篇作文获得“朝日学生新闻社”第四届作文比赛“最优秀奖”,本届作文比赛的主题是“感谢”。我也想借此告诉自己正在准备高考的学生:这就叫“真情实感”。                                 我和爸爸的便当盒日本广岛   片山悠贵德(7岁,一年级)
  爸爸因病去世三年之后,我成了一名小学一年级学生。  有件事要报告爸爸一下,虽然我想爸爸一定也已经看到了,我借用了爸爸的便当盒。  我一想起昨天的事情,心里还在怦怦直跳。  我的便当盒碰到筷子的时候,发出很好听的声音。昨天的便当,十分特别,虽然才上午十点,可我脑子里想着的全是便当。  之所以说昨天的便当盒很特别,那是因为第一次使用了爸爸的便当盒。爸爸去世后,我非常寂寞非常难过。  爸爸在“天麸罗屋”工作,爸爸油炸的天麸罗,是世界上最好吃的。每次我去吃的时候,爸爸总是悄悄地、为我炸许多我最最喜欢的“海老天麸罗”。那种时候,我不由得感觉到自己很特别,因此十分开心。那以后我每天吃得多多的,还努力练习空手道,以至于一直使用着的便当盒变得不够用了。  “想要个大的便当盒!  我这么一说,妈妈便从橱柜的里边将爸爸上班时常常使用的便当盒拿出来给了我。  “对悠君来说,会不会太大了些呢?”妈妈说,但还是让我用上了爸爸的便当盒。  然后,就是从早上开始等了又等的吃便当的时间。我将便当全部吃得光光的。吃完之后觉得自己就像爸爸一样,变得又强大又温和,变得很想见到爸爸。到现在回想起这么高兴又好吃的特别的便当,心里还怦怦地跳个不停。  如果能够向神许愿的话,我想要能再一次和爸爸、和妈妈、和我和妹妹大家一起生活。不过爸爸一直在天空中守护着我们。  虽然爸爸不在很寂寞,但我是家里的一个男孩子,我会代替爸爸保护好妈妈和妹妹。我会用爸爸的便当盒好好地吃饭,成为更加更加坚强的、温和的男孩子。  爸爸,谢谢你借给我便当盒。
注:  便当盒:饭盒  天麸罗:油炸食品  海老:虾

-------------------------日语原文-------------------------
お父さんのおべんとうばこ 心震える片山君の作文2010年11月30日  朝日新聞社
父の俊作さんに抱かれる悠貴徳君=2006年6月撮影、片山恵津子さん提供
表彰式で作文を読み上げる片山悠貴徳君=東京?築地の浜離宮朝日ホール
お父さんの弁当箱を持つ悠貴徳君=広島市中区
悠貴徳君が書いた作文

 第4回「いつもありがとう」作文コンクール(朝日学生新聞社主催、シナネングループ共催)で、広島市立中島小学校1年の片山悠貴徳(ゆきのり)君(7)が最優秀賞に輝いた。亡き父へ贈る「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。全国3万3421点の応募作から選ばれた。27日に東京で表彰式があり、悠貴徳君が作文を朗読。参加者は目を潤ませた。
 ■受賞作の全文
 おとうさんがびょうきでなくなってから三年、ぼくは小学一年生になりました。
 おとうさんにほうこくがあります。きっとみてくれているとおもうけど、ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました。
 ぼくは、きのうのことをおもいだすたびにむねがドキドキします。
 ぼくのおべんとうばことはしがあたって、すてきなおとがきこえました。きのうのおべんとうは、とくべつでした。まだ十じだというのに、おべんとうのことばかりかんがえてしまいました。
 なぜきのうのおべんとうがとくべつかというと、それはおとうさんのおべんとうばこをはじめてつかったからです。おとうさんがいなくなって、ぼくはとてもさみしくてかなしかったです。
 おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした。おとうさんのあげたてんぷらはせかい一おいしかったです。ぼくがたべにいくと、いつもこっそり、ぼくだけにぼくの大すきなエビのてんぷらをたくさんあげてくれました。そんなとき、ぼくはなんだかぼくだけがとくべつなきがしてとてもうれしかったです。あれからたくさんたべて空手もがんばっているのでいままでつかっていたおべんとうばこではたりなくなってきました。
 「大きいおべんとうにしてほしい」
 とぼくがいうと、おかあさんがとだなのおくからおとうさんがいつもしごとのときにもっていっていたおべんとうばこを出してきてくれました。
 「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」
 といいました。でもぼくはおとうさんのおべんとうばこをつかわせてもらうことになったのです。
 そしてあさからまちにまったおべんとうのじかん。ぼくはぜんぶたべることができました。たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました。いまおもいだしてもドキドキするくらいうれしくておいしいとくべつなおべんとうでした。
 もし、かみさまにおねがいができるなら、もういちどおとうさんと、おかあさんと、ぼくといもうととみんなでくらしたいです。でもおとうさんは、いつも空の上からぼくたちをみまもってくれています。
 おとうさんがいなくて、さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます。おとうさんのおべんとうばこでしっかりごはんをたべて、もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。
 おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます。
 ■お父さん 僕が守るけん
 「おとうさんにほうこくがあります」 悠貴徳君は母?恵津子(えつこ)さん(33)、妹の乃莉子(のりこ)ちゃん(4)との3人暮らし。作文を書いたのは、8月中旬だった。夏休みの自由研究で、お父さんのことを書きたいと恵津子さんに言った。 父の俊作さんは2007年3月19日、心臓発作で亡くなった。27歳だった。生前使っていたダイニングのいすに座り、遺影がある仏壇の前で、3時間かけて作文を書いた。 「ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました」 俊作さんが毎朝、恵津子さんから弁当箱を受け取る姿を、悠貴徳君は隠れて見ていた。「俊ちゃんが行っちゃう」。お父さんが仕事に出かけるのがさみしかった。 「おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした」 店に遊びに行くと、いつも大きな声で言われた。「ちょっと待っとれー」。空いている端の席で体を揺らしながら待った。しばらくすると、大好きなエビの天ぷらをたくさん食べさせてくれた。 「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」 今年の夏、今までの弁当箱では量が足りなくなり、大きくしてほしいと恵津子さんにお願いした。お父さんが使っていた弁当箱が棚から出てきた。「俊ちゃんのエビの味がする」。その弁当箱でご飯を食べると、そんな気がした。「俊ちゃんの分。一緒に食べたいだろうから」。初めて使った時、ふたにご飯を乗せ、一緒に食べた。 「たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました」 8月下旬、夢を見た。仏壇の下からお父さんが出てきた。「戻って来てよかったね」。お父さんは「天国におったけど、また来られてよかったよ」と頭をなでてくれた。大好きなプラレールで遊んだ。夢からさめてダイニングに行くと、お父さんのいすはやっぱり空いていた。 「さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます」 10月、恵津子さんが俊作さんのことを思い出し、声を出して泣いていた。悠貴徳君は歩み寄って言った。「だいじょうぶ。ママもつらいけど、ぼくもつらいけど、がんばろう。ぼくが守るけん」 泣きながら、恵津子さんの背中をさすった。 「もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます」 作文は今、俊作さんの仏壇に供えられている。(山本恭介)
 ■「家族の温かさ伝わった」「優しさや強さ生き生き」/審査員 27日に東京の浜離宮朝日ホールであった表彰式。コンクールの審査員に、感想を尋ねた。 作家のあさのあつこさんは「まるで物語。亡くなった人のことを書く作品は湿っぽくなりがちだが片山君の作文は違った。お父さんのことを書きながら片山君を取り巻く家族の温かさも伝わってきた」と目頭をぬぐった。 「お父さんの優しさや強さが生き生きと描かれ、目に浮かぶようだった。お父さんに『ざぶとん1枚!』」と話すのは漫画家の尼子騒兵衛(そうべえ)さん。「お父さんも喜んでいるはず。すてきな『ありがとう』に出会えて私も幸せ」 気象予報士の森田正光さんは「仕事柄、個人的な体験を人に共感してもらう難しさはよく分かっている。片山君にその力があることが作文から伝わった」と驚いていた。